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東京大空襲

昨3月10日は、東京大空襲の記念日です。
最近は、あちこちで取り上げられるようになってきて、一時のように忘れ去られるのを心配することはなくなりました。
補償を求める声に応えようという動きも出てきたようですが、空襲の被害を受けたのは東京だけではなく全国に及んでいるので、無理な話でしょうね。
近頃は、直接被害に遭われた方々が、今の内にご自分が経験されたことを話して下さることが多くなったようで、戦争のもたらす悲惨な事態が広く知られるようになり、若い人々にも「戦争をしてはいけない」と言う気持ちが理解されるようになってきたようです。
戦争の恐ろしさを、もっと世界中の人々に知ってもらうことが必要ですね。

今これを書いている最中に、大きな地震がありました。
岩手県では、震度7だそうです。
大津波警報も出されました。
岩手県・宮城県・福島県では10mを超す津波が予想されています。
TVでは気仙沼港で桟橋や漁船が、津波に流されている映像が見られます。
その後も、こちらでもかなり大きな余震が続いています。
呉々も海岸などに近づかないよう、ご注意下さい。
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theme : 思ったこと・感じたこと
genre : 日記

終戦記念日

今日も朝から暑い日差しがジリジリと照りつけています。
65年前の8月15日も、今日のように暑い日でした。
当時8歳(小学2年生)だった私は、疎開先の岩手県水沢市にいました。
昼近くになって、何人かの大人達が我が家の居間に集まってきました。
何か重大な放送があるとのことで、みんな真剣な面持ちでラジオの前に座っていました。
私は縁側に座って聞いていたのですが、雑音が多いのと、言葉が難しすぎて、なんの話なのか全く理解できないでいました。
大人達も同じだったようですが、天皇陛下のお言葉だったことは分かったようです。
お言葉が終わって、アナウンサーが普通の言葉に直して話してから、やっと戦争が終わったことを理解したようです。
みんな呆然としていましたが、母が一言「これで終わったね」と言ったことは、鮮烈に覚えています。 そして、「これでやっと東京へ帰れる」という気持ちが、フツフツとこみ上げて来たのです。
疎開先での生活は、決して楽しいものではありませんでした。
クラスでただ一人の東京者だったので、言葉や着ている物の違いなどから、どうしても浮いてしまうんですよね。
あまりいじめられたという意識はなかったのですが、どこかでのけ者にされているという感じは付きまとっていたのでしょうね。
祖母と母と、3歳と生後8ヶ月の弟との5人暮らし(父は仕事の関係で仙台に行っていました)でしたが、御多分に漏れず食べ物などには不自由をしていました。
東京へ帰ったからといって不自由な暮らしが変わるわけではないのですが、やはり誰にも遠慮することのない生活が恋しかったのでしょうね。
幸いにも住まいは空襲に遭うこともなく残っていたので(家具などは、父の会社の倉庫に預けてあったので、仙台の空襲で焼けてしまいました)、9月の末に東京へ戻ることが出来ました。
通学していた小学校も焼け残り、1年生からの友達に再会して、戦後の生活が始まったのです。
近くの小学校が焼けてしまったので、1学年8クラスという大所帯でした。
仮校舎が出来るまでは午前組・午後組の二部制で、午前組は授業が終わると給食のコッペパンをもらって帰宅しました。
初めのうちは、教科書を墨で塗りつぶすことが主でしたね。
分教所が出来て授業が正常に戻ると、ララ物資の給食が始まりました。
脱脂粉乳とトマトジュースが交互に出てきて、その度に教室の窓の下が白くなったり赤くなったりしたものです。
戦争へ行かれた方や、戦災で焼け出された方がされた苦労とは比較になりませんが、それでも子供なりに戦後の辛さは味わってきたような気がします。

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genre : 日記

終戦記念日

今日は、64回目の終戦記念日です。
昭和20年のこの日は、岩手県の水沢に疎開していました。
全国的にそうだったようですが、とても暑い日でした。
午後0時になると、近所の人数人と祖母と母とが茶の間に集まって、ラジオの前に正座していました。
私は小学2年でしたが、なんだか訳が分からず、3歳の弟と庭で遊んでいました。
間もなく雑音の激しい放送が始まり、大人達は首を垂れて聞いていました。
放送が終わると、みんなが放心したような顔をして、しばらくは動きませんでした。
「どうしたの?」と母に聞くと、「戦争が終わったんだよ」という答えが返ってきました。
その答えを聞いて最初に浮かんだのは、「東京の家に帰れるんだ」ということでした。
水沢に疎開したのは、母方の遠い親戚の紹介だったようですが、知り合いは全く居ませんでした。
父は会社(精工舎)が仙台に疎開していた為にそちらに行っていたので、祖母も母も食料集めやその他の色々な面で、大分苦労したようです。
3月までは東京にいたので、4月から水沢小学校に通い始めたのですが、ご多分に漏れず、上履きを隠されたり、ランドセルをひっくり返されたりなどの軽いいじめに遭いました。
やはり都会からやって来た子どもは、どこか受け入れられないところがあるんでしょうね。
それでも、地元の子ども達と果樹園で遊んだりした記憶があるので、全く疎外されていたわではなかったのだと思います。
葛飾の家は戦災に遭わなかったので、9月の末には東京へ戻りました。
若い頃は水沢へ行ってみたいという気持ちにはなりませんでしたが、近頃はあの小学校はどうなっているんだろうなどと考えることもあります。
それだけ、いやな記憶が薄らいだと言うことなんでしょうね。
戦争をしてはいけないという気持ちは、しっかりと持っていなければならないと思うのですが・・・

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