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終戦記念日

今日も朝から暑い日差しがジリジリと照りつけています。
65年前の8月15日も、今日のように暑い日でした。
当時8歳(小学2年生)だった私は、疎開先の岩手県水沢市にいました。
昼近くになって、何人かの大人達が我が家の居間に集まってきました。
何か重大な放送があるとのことで、みんな真剣な面持ちでラジオの前に座っていました。
私は縁側に座って聞いていたのですが、雑音が多いのと、言葉が難しすぎて、なんの話なのか全く理解できないでいました。
大人達も同じだったようですが、天皇陛下のお言葉だったことは分かったようです。
お言葉が終わって、アナウンサーが普通の言葉に直して話してから、やっと戦争が終わったことを理解したようです。
みんな呆然としていましたが、母が一言「これで終わったね」と言ったことは、鮮烈に覚えています。 そして、「これでやっと東京へ帰れる」という気持ちが、フツフツとこみ上げて来たのです。
疎開先での生活は、決して楽しいものではありませんでした。
クラスでただ一人の東京者だったので、言葉や着ている物の違いなどから、どうしても浮いてしまうんですよね。
あまりいじめられたという意識はなかったのですが、どこかでのけ者にされているという感じは付きまとっていたのでしょうね。
祖母と母と、3歳と生後8ヶ月の弟との5人暮らし(父は仕事の関係で仙台に行っていました)でしたが、御多分に漏れず食べ物などには不自由をしていました。
東京へ帰ったからといって不自由な暮らしが変わるわけではないのですが、やはり誰にも遠慮することのない生活が恋しかったのでしょうね。
幸いにも住まいは空襲に遭うこともなく残っていたので(家具などは、父の会社の倉庫に預けてあったので、仙台の空襲で焼けてしまいました)、9月の末に東京へ戻ることが出来ました。
通学していた小学校も焼け残り、1年生からの友達に再会して、戦後の生活が始まったのです。
近くの小学校が焼けてしまったので、1学年8クラスという大所帯でした。
仮校舎が出来るまでは午前組・午後組の二部制で、午前組は授業が終わると給食のコッペパンをもらって帰宅しました。
初めのうちは、教科書を墨で塗りつぶすことが主でしたね。
分教所が出来て授業が正常に戻ると、ララ物資の給食が始まりました。
脱脂粉乳とトマトジュースが交互に出てきて、その度に教室の窓の下が白くなったり赤くなったりしたものです。
戦争へ行かれた方や、戦災で焼け出された方がされた苦労とは比較になりませんが、それでも子供なりに戦後の辛さは味わってきたような気がします。
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theme : 思ったこと・感じたこと
genre : 日記

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